こんにちは、アイブレイン代表の渡邊です^^
本記事では私・渡邊が代表のプロフィールとしまして、記事公開させていただきます。
個人年表
- 出身地 : 福岡県
- 生年月日 : 1969年10月17日生まれ
- 血液型 : A型
アイブレイン代表・渡邊益弘という人間
木造の町営住宅(家賃6,000円/月)で18年間暮らす(1970年代)
私・渡邊は父、母の間に一人息子として生まれ、祖母も加えた4人家族で高校卒業までの18年間を木造の町営住宅で暮らしていました。
※イラスト屋※教育熱心な親の画像
私の幼少時代を振り返ると教育熱心な母によって、多くの習い事に通わされていました。
例えば、絵画、書道、オルガン、そろばんなどなど、様々な習い事に通っていました。
※この多くの習い事の経験が私にある才能を開花させるのですが、それは記事後半でお伝えしています。
おそらく習い事に通わせていた当時の母の心情として
- 家で独りだけで寂しい思いをさせたくない
- 何かの才能を開花させたい
という2つの思いがあったのではないのかと思います。これは現在20歳を超えた社会人の一人息子を持つ私にも言えていて、私の息子も同様に幼少時代は多くの習い事に通わせていました。
※今ではその息子は社会人1年目であるITベンチャー企業の社長に就任しています。めちゃ大変そうですがw
さて、このようなことを聞かれると、あなたは「渡邊って裕福な家庭で家族から手を掛けられながら育ったんだろうな~」という風に思われるのではないでしょうか?
※イラスト屋※和やかな一家団欒の画像
このような感じで和やかな一家団欒(いっかだんらん)をご想像されるのではないでしょうか?
※イラスト屋※家庭が荒んでいる様子
実際はその逆で、一家は父を中心として荒んでいたのでした。
当時の家庭内の様子と言えば・・・
- 父親
アルコール中毒で仕事をほとんどしない、酒のせいで近所の人間と口論になったり、家ではちゃぶ台をひっくり返したり、家族に暴力をふるうこともあった - 母
父,祖母,私を支えるために働きづめの生活、ほとんど家にいない - 祖母
自分の身の回りの世話をしてくれている、母の代わりに育ててくれた
このような状況でしたので父が原因で家庭が不協和に陥っていきました。
この不協和が原因でずっと手をかけて育ててくれた母に対して私は
「なんでお父さんの暴力からおばあちゃんを守ってあげないんだよ!?」
そう思って、家庭を支えるためには働くしかなかった母に対して当たってしまったこともありました。
ここまで父を中心に家庭が崩壊したことを書くと、私が父をずっと憎み続けていたように感じるのではないでしょうか?たしかに、同じ家で暮らしていた高校卒業までは父を憎み続けていました。ただ高校卒業後には父とは打ち解けあいました。当時の父の年齢を超え50歳を過ぎた今では、こういった嫌な記憶よりも父からもらった良い言葉や笑顔、読書をしている様子ばかりが浮かんで「俺を育ててくれた立派な父だったんだな。」と思えていますので不思議なものです。
小学校,中学校,高校と年齢を重ねるにつれ、世間が見えてきたことや母親,おばあちゃんの辛そうな様子も見えてきたことで、次第に家にいるのが辛くなってきました。
そして、高校生になったころにはほとんど家にほとんど帰らず、高校の友人たちと遊んでいました。
その遊びとは・・・
不良の遊び
でした。
不良の遊び「タバコ,酒,パチンコ,バイク,ケンカ」に明け暮れたヤンチャな工業高校時代(1980年代中盤)
上のタイトルにも書いてありますが、私の工業高校時代は…
タバコ,酒,パチンコ,バイク,ケンカ
と、いわゆる今の時代では不良が行う遊びをしていました。
特にパチンコには力を入れていて「娯楽」ではなく「お金稼ぎ」として取り組んでいました。夕方5字から開店する新装開店※のパチンコ屋を狙って、授業をサボって荒稼ぎしていた時期もありました。財布は常に福沢諭吉さんパンパンでしたw
※当時の新装開店のパチンコ屋は釘を緩めて、2,3日は赤字覚悟でホールを開放していたのです。
おそらく「タバコ,酒,パチンコ,バイク,ケンカ」と聞くと「渡邊は当時どうしようもない人間だったんじゃないのか?」と思われてしまう方もいるかもしれませんが、当時はこういった不良の遊びに取り組むのは当たり前の時代が存在していました。
これは今の若者同士がコミュニケーションツールとしてSNS(TwitterやTikTokなど)を使って交流するような感覚に近いのかもしれませんね。
いつの時代も若者の中ではカルチャーがあると思いますが、当時のカルチャーは不良であったと思います。
例えば、クラスの優等生から一番悪い不良のトップを10段階に分けるとすると、当時の私のレベルは…
せいぜい2~3段階程度
クラスの不良の大勢に分類されるくらいの立ち位置でした。
ちなみに10段階のトップレベルは、夜の駅前やコンビニにたむろしてカツアゲのために恐喝、暴力を平気で行うワルのことをさします。(今の時代はホントに治安が良くなりました。)
ですので、表向きは不良の風貌(頭はリーゼント、学生服は改造した短ラン、ボンタン、靴はツッカケ(サンダル) )だとしても、心の中は真面目で勉強をこなす人も多くいました。
かくいう私も風貌こそ不良なもののクラスの成績は上位を維持するように勉強していました。
タバコ吸いながら!(爆笑)
あなたの学生時代を思い出されてみても、クラスで勉強をしない生徒はわずかで大多数は平均的に勉強をこなしている生徒なのではないでしょうか?
そんな高校不良生活も終わりを迎え、卒業の時期となりました。
工業高校だったので多くの同級生たちは某大手自動車メーカーなどに就職していました。
私はというと、どうしても地元の福岡を離れ当時付き合っていた彼女と東京へ出て行きたかったので、あえてガチガチな大手企業は就職先の対象から外し、関東で寮のないホワイトカラーな仕事を探して、条件に合致する会社を見つけることができて、そこに就職しましたw
※実は就職と同時に彼女との同棲生活を目的としていたわけです。そんな私が今じゃ、会社経営者なわけですから笑えますよね?
ITまっしぐらの社会人時代
「彼女を支えながら地元を離れて幸せに暮らす」
これが私の社会人の目的で、そのための仕事として巡り会えた1社目の会社はIT関係の仕事でした。
このIT業界との偶然の出会いが私にとって幸運となりました。
もともと学生時代から「数学」「美術」が得意分野でして、数学の論理的思考が得意で学生時代はずっとトップ成績でしたし、美術に関しては毎回金賞をもらっていて美術の才能がありました。
※幼いころからずっと「いずれ自分は美術関係の作家になるのだろうな」と思っていました。
数学、美術の才能については記事冒頭と繋がりますが、おそらく幼少時代の習い事によって、手先が刺激されたり、様々な価値観に触れる事によって才能が目覚めたように感じます。
よくプログラミングやシステムを書くときには「仕様書(設計図)」を書いて、それに沿って作成していきます。
ですが、私はそれを書かなくても
頭の中でイメージ
が浮かんできて、構成や順序を一通り頭の中でまとめてそれをトレースするようなことが出来ていました。
※ほかで例えるとすれば、普通の人がピアノで曲を弾くときには楽譜が必要なところを、一度耳で聞いただけで即興で曲を弾けるような才能に近いものだと思います。
私はこのことをシンプルに「イメージ力」と呼んでいます。
このイメージ力は何もプログラミングやシステム開発だけに限ったものではなくて、
- ブログサイトの記事執筆
…頭の中で目次表を完成させる - 相手との円滑な会話
…どんな言葉を掛ければ喜んでもらえるのかを感じ取れる - プロジェクトの発足
…過去の経験・知識を繋ぎ合わせて大まかな設計ができる(当社の主力サービス・ブログ資産化サービスはイメージから生まれたものです)
以上のように、(当社では従業員に私の頭の中身を同期出来るようにコミュニケーションや少数精鋭(従業員4人)で運営しております。)
おそらくこの
まとめ
IT企業でありながら、「芸術」の側面も強いように感じます。
夢は「諦めなければ夢は叶う」ということをPayPayドーム(約30,000人)を満席にしたい。
私の強みは「目線を合わせて話せる」ということ。
勇気づけられて、どんな人間でも自由になれるという影響を与えていきたい。
アイブレイン株式会社の理念
そこで選んだのがインターネット集客のコンサル企業になります。
個人の時代に入っているため
個人で突き抜けられるようなカリスマ性のある人じゃなくても成功できる。